武田時代にできた海津城は、本丸・二の丸を中心にし、総構えの土塁・堀が広く城下を囲いこんだものだった。総構えは『松代町史』の「海津城絵図」(図1)でわかる。西側から北側にかけては千曲川がめぐっている。東側はほぼ関屋川に沿い、藩主の菩提寺(ぼだいじ)長国寺境内を取りこんで少し回りこみ、南に折れて大林寺と証蓮寺のあいだを通る。ここの土塁は現存し、堀跡もわかる。大英寺御霊屋(おたまや)のあたりは前海津城跡で、出城のようにこの部分が南に張りだしていたらしい。このあたりには多くの寺が集まっていて寺町といわれている。大英寺から北西に木町と紺屋町の境を通り、紺屋町の北裏を通り、文武学校と真田邸のあいだを通って千曲川で終わる。全長約二二〇〇メートル、土塁の高さ約四メートルであった。この総構えは、藩時代からだんだん壊されて畑や屋敷地になってしまった。武田時代には本丸に春日虎綱(とらつな)、二の丸に上野(こうずけ)の小幡(おばた)虎盛がいた。上杉景勝(かげかつ)領時代にははじめ本丸に村上景国が、二の丸に屋代秀正がいた。上杉氏転封前、約一三年間城代を勤めた須田満親は城の整備につとめたらしく、石垣の一部は須田がつくったらしい。上杉氏が去ったあと、豊臣政権はその北の守りとして海津城の改修に積極的に乗りだし、豊臣系の田丸直昌(ただまさ)を城主とした。本丸の石垣はこのときにつくられたという記録がある(春原幸前絵図)。田丸のあとに入った森忠政の家臣たちは海津城の設備のよいのに驚いている。忠政は関ヶ原合戦や総検地に忙しく城まで手が回らぬうちに去った。松平忠輝の城代花井吉成はきわめて有能な人物で、土木技術にもすぐれていたから、城が三の丸まで整備されたのはこの時代であろう。