城の変遷

350 ~ 351

享保(きょうほう)二年(一七一七)湯本火事という大火に類焼、本丸御殿をはじめ城内の建物がほとんど全焼した。本丸御殿は間もなく再建、ついで遊園地だった花の丸にも御殿が建てられた。

 寛保(かんぽう)二年(一七四二)戌(いぬ)の満水といわれる千曲川大洪水があり、城の堀が全部埋まる大被害をうけた。このため、千曲川本流を城から離す工事が延享(えんきょう)四年(一七四七)から始まり、宝暦十年(一七六〇)ころいちおうできたが、護岸の手立ての講じられぬ不完全なものだった(『千曲川瀬直しにみる村人の歴史』)。

 寛延(かんえん)四年(一七五一)には地震があり、花の丸御殿が被害をうけ、その後は本丸御殿を藩主居宅にした。

 明和二年(一七六五)にも水害があり、本丸御殿が損傷した。このため、また明和六年から千曲川改修がおこなわれ、同九年いちおう完成した。明和七年に花の丸に御殿ができて以後花の丸が藩主居宅・政庁になった。旧川筋を利用して「百間堀」がつくられ、これにともない新しい曲輪(くるわ)ができた。

 弘化四年(一八四七)の大地震では石垣をはじめ大きな被害をうけた。石垣はそれまでにもだいぶ傷(いた)んでいたが、藩財政の逼迫(ひっぱく)から石垣の修理にまで手がおよばず、最近の大修理までほとんど放置されていた。

 花の丸御殿は嘉永(かえい)六年(一八五三)火災にあい、翌年から九年間かけて再建したが、明治六年(一八七三)放火により全焼した。ほかの建物も壊され土地は払いさげられた。しかし旧藩主真田氏が買収、明治三十七年遊園地として開放、以後公園になっている。