一 神社

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 祝神社 伊勢町 ①祭神 生魂命(いくたまのみこと) 相殿 健御名方富命(たけみなかたとみのみこと)・八坂斗売(やさかとめ)命 ②由緒 もと東条にあった。海津城の鎮守で、天正(てんしょう)十七年(一五八九)海津城代須田満親が「当城鎮守諏訪大明神」へ社領二貫文を寄付しているから、そのころには城内に移されていたらしい。慶長三年(一五九八)田丸直昌が現在地に移したという。寛延四年(一七五一)社号を祝(ほうり)神社と改めた。享保(きょうほう)二年(一七一七)、天明八年(一七八八)と二回火災にあい、文化九年(一八一二)現社殿ができた。真田家からの寄付一〇〇両をもとに八町などの拠出金による。当社は町方の産土神(うぶすながみ)で、いまも「お諏訪さん」として町の人びとに親しまれ信仰されている。御柱祭も盛大におこなわれる。本殿は一間社入母屋(いりもや)造り銅瓦葺(かわらぶ)き、拝殿間口四間・奥行七間、瓦葺き。明治十五年(一八八二)郷社。二福神社・宗方(むなかた)社・猿田彦社・伊勢社・稲荷社などの境内社がある。主に明治四十二年に町内各町から移したもので、二福神社は恵比須(えびす)・大黒を祭る神社で、十一月十日のえびす講には穂高の飾り物などが境内に設けられたりしてにぎわった。平成十一年(一九九九)には祭りが十三日・十四日におこなわれ、境内にミニ新幹線が走ったり、青垣公園(西条)で花火があげられたりしてにぎわった。宗方社は祇園(ぎおん)社で尼巌(あまかざり)城下の玉依比売命(たまよりひめのみこと)神社とゆかりがあるといわれ、祇園祭に神が玉依比売命神社から中町の御旅所へ御移りになるのもそのゆかりによるという。猿田彦神社は道祖神で、近世には町内で道祖神祭がさかんにおこなわれ、天王祭(祇園祭)、肴(さかな)町・下田町道祖神祭だけは城中に入ることを許されていた。境内の北に接して別当練光寺があり、寺領一五〇石をあたえられていた。真言宗智山派談林所(学問所)で多くの学僧を輩出した。末寺七寺。隆盛をきわめたが、明治以後寺運衰え、大正十年(一九二一)廃寺となり、古文書、歴代墓碑などは、東条岩沢の末寺東光寺に移された。古文書八通は市文化財に指定されている。


写真2 祝神社

 荒神堂 荒神(こうじん)町 もと清須町裏にあり、海津築城のため東条大日堂へ移され、さらに現地に移ったという。町名のもとになった堂であり、明治以後、火神三柱(ひのかみみはしら)大神と称し、祝神社に合祀(ごうし)されたが、今も荒神町の人びとが守り平成十一年(一九九九)に堂の修理がおこなわれた。

 稲荷社 殿(との)町 ①祭神 御舟屋稲荷(おふねやいなり)大明神 ②由緒 旧藩のころ、御舟蔵(おふねぐら)のあった地に勧請(かんじょう)したもので、廃藩まで道橋奉行所の鎮守であった。維新後廐(うまや)町(荒神町・中町の境から西に通じる道。殿町のうち)の人びとが奉祀している。海津城ができたころは舟がこの近くまで入ったのだろう。文政四年(一八二一)から始まった藩営川舟の会所も近くの荒神町裏に設けられた。

 象山神社 有楽(うら)町 ①祭神 佐久間象山 ②由緒 昭和六年(一九三一)設立許可を得、十三年鎮座大祭をおこなった。同時に県社に列せられた。場所は象山生誕地(県史跡)に隣接している。境内に高義亭(市文化財)がある。もと家老望月主水(もんど)の下屋敷(御安町)の建物で象山が蟄居(ちっきょ)中使用した建物である。近くに長野市立象山記念館(昭和四十二年開館)がある。