長国寺 曹洞宗 田町 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ) ②山号 真田山 ③由緒 真田幸隆(ゆきたか)が上野国(こうずけのくに)で浪人しているとき、晃運(こううん)が世話をしてくれたので、本領回復のときは寺を建てて晃運を開山にすると約束した。その約束にしたがい、まず小県郡真田(真田町)に長谷寺(ちょうこくじ)を建て、元和(げんな)八年(一六二二)信之が現在地に移した。朱印領一〇〇石、真田家から二〇〇石をあたえられ、曹洞宗信濃僧録所(そうろくじょ)(取締り)となった。明治五年(一八七二)火災にあい同十九年再建したが、規模は旧時におよばなかった。境内につづき五棟の霊屋があったが現在は二棟だけである。藩祖信之の霊屋(たまや)(重要文化財)は没後二年の万治(まんじ)三年(一六六〇)の建築、入母屋(いりもや)造り、千鳥破風(はふ)付き、桃山風を残す豪華絢爛(けんらん)たる建築で、昭和五十六年(一九八一)解体修理された。歴代藩主などの位牌(いはい)を安置する。その南の霊屋は四代信弘霊屋(県宝)で元文(げんぶん)元年(一七三六)の建立、宝形(ほうぎょう)造り、現在は藩主夫人ら女性の位牌を安置する。三代幸道霊屋は現本堂再建のとき、本堂裏に移築、開山堂とした(県宝)。幸道の母松寿院の霊屋は孝養寺(向陽寺)に移築後焼失、二代信政霊屋は清野林正寺本堂として移築された。霊屋の裏には真田家歴代の墓地が、境内墓地に恩田木工民親(もくたみちか)の墓(市史跡)がある。境内一帯が松代藩主真田家墓所として国の史跡に指定されている。
梅翁院 曹洞宗 田町 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 芳谷山 ③由緒 藩祖信之の側室梅翁院(ばいおういん)(玉川右京娘、二代藩主信政の母ともいう)およびその両親の菩提のため、真田氏によって建てられたという。開山は長国寺六世稟室(りんしつ)大承。長国寺の隠居寺であった。現本堂は文久元年(一八六一)の再建。天蓋(てんがい)は真田家霊屋から移したもの。
真勝寺 浄土真宗本願寺派 田町 ①本尊 阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 樟原(しょうげん)山 ③由緒 元和九年(一六二三)高山村に建立された。もと真言宗願法寺の地で、今も内仏にその寺名が彫られている。寛文(かんぶん)年間(一六六一~七三)現在地に移り、地名樟原(くすはら)により現山号寺名に改めた。享保(きょうほう)二年(一七一七)袋町の火災に類焼、同十一年再建、時の六世無為庵は中興と崇(あが)められている。藩の馬場近くにあったので「馬場の真勝寺」ともいわれた。弘化四年(一八四七)の大地震の被害をうけ、明治になって現本堂が再建された。
西念寺 浄土宗 肴(さかな)町 ①本尊 阿弥陀如来座像 ②山号 送経山摩尼(まに)宝院 ③由緒 はじめ西応寺といい、貞治(じょうじ)四年(一三六五)現松代城内の萱津(かやつ)に建てられたと伝える。二の丸跡から永正(えいしょう)七年(一五一〇)の銘のある石塔が出ているから、そこに寺があったらしい。森忠政のとき現在地に移され代償として中沢寺(篠ノ井東福寺)領五石が寄進され中沢寺は当寺の末寺となったという。慶長七年(一六〇二)松平忠輝が川中島領主となり、まもなく花井吉成が松代城代になった。吉成は洞誉春虎(とうよしゅんこ)を招いて当寺を再興、吉成が中興開基に、春虎が中興開山になった。春虎はのち寛慶寺(長野)・静松寺(茂菅)などを中興した。何度も火災、洪水にあったが、本尊(近世初期)は救出された。境内墓地に松代城代花井遠江守(とおとうみのかみ)吉成の墓(市史跡)がある。
願行(がんぎょう)寺 浄土宗 御安(ごあん)町 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 功徳山 ③由緒 天文(てんぶん)年間(一五三二~五五)海野幸義が祖先棟綱(むねつな)の菩提(ぼだい)を弔うため小県郡海野(東部町)に開基した。神科伊勢山、上田をへて五世道山のとき、真田信之にしたがい松代に移った。享保十八年、安永八年(一七七九)、明治五年、同二十四年と四回火災にあい、現本堂は昭和五年にできた。藩祖信之の近臣伊木尚正(いきなおまさ)が主君没後、二四歳で当寺で出家、庵を構えて主君の菩提を弔っていたが、庵焼失後、信之影像が寺宝として現存している。
龍泉寺 御安町 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 高安山 ③由緒 元亀(げんき)元年(一五七〇)高坂弾正(春日虎綱)が母の菩提を弔って建てたという。豊栄明徳寺末寺。寛文八年(一六六八)東荒町から現地に移転、明治七年、当寺に教寛学校(松代小学校の前身の一校)が開校された。近世に二度火災にあい、さらに明治二十四年の大火で類焼、その後再建した。
蓮乗寺 日蓮宗 御安町 ①本尊 十界曼荼羅(じっかいまんだら)(宗祖始顕) ②山号 久龍(きゅうりゅう)山 ③由緒 文永(ぶんえい)八年(一二七一)日蓮が佐渡へ流されたとき、九龍源吾が迎えて弟子になり、同十一年許されて帰るときまた迎えて宿とした。建治(けんじ)元年(一二七五)、家を改めて海津寺を建てた。武田氏による海津築城のとき、城内から現地に移り、蓮乗寺と改称した。境内に七面大明神(日蓮宗の守り神)があり、毎月九の日が縁日でにぎわう。境内墓地には加藤道向(清正旧臣、菅平開拓者)、佐久間象山、その子恪(いそし)などの墓がある。
孝養寺(もと向陽寺、昭和四十八年改称) 曹洞宗 御安町 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 報恩山(もと可候(かこう)山) ③由緒 東寺尾の可候(そろべく)峠のふもとにあった。その後御安に移り地蔵堂だけあったが、藩士藤岡忠利が亡父を開基とし龍泉寺の雲外祖蓮を開山として当寺を建て、龍泉寺の末寺とした。明治以後真田家霊屋から松寿院霊屋を本堂として移したが、明治二十四年の大火で焼失した。境内に「おしゅん地蔵」(かのこと地蔵)があり、信之の侍女おしゅんの姿を刻んだものという。平成十二年現在無住。
大林寺 曹洞宗 石切町 ①本尊 釈迦牟尼仏 ②山号 寒松山 ③由緒 昌幸夫人寒松院が上田房山(ぼうやま)に創建、信之が墓碑・遺骸とともに松代に移した。信之の申請により朱印領七〇石をあたえられた。修行僧七、八十人がおり、米をといだ水で溝が白くなるので「白水流しの大林寺」と唄(うた)われた。四回火災にあい、そのたびに規模が小さくなった。明治五年の大火で類焼、文武学校の槍術場を二分して移し、本堂兼庫裏(くり)とした(いっぽうの長国寺へ移した分は元へ返して復元)。しかし明治二十四年の大火で類焼、明治四十五年に本堂を再建した。境内墓地北端は旧松代城総構えの堀の一部であった。
証蓮寺 真宗大谷派 寺町 ①本尊 阿弥陀如来(伝慈円作)②山号 白鳥山 ③由緒 木曾義仲の佑筆(ゆうひつ)覚明(西仏坊(さいぶつぼう))を祖とする海野系の寺で、塩崎の康楽寺二世浄賀を開基とする。東条中川にあり、永禄十一年(一五六八)の武田信玄禁制(きんぜい)、天正(てんしょう)十年(一五八二)の森長可(ながよし)禁制をあたえられている。慶長年間(一五九六~一六一五)、現在地に移転した。寺地の南縁は松代城総構えの土塁で、今は墓地になっており、東条の古い檀家の墓がその上部に並んでいて、当寺の歴史を物語っている。安永八年(一七七九)、明治五年火災にあい、一九世海野良仲が復興につとめ、本堂は明治二十六年に、太子堂・鐘楼は大正元年(一九一二)に完成、中興開山になった。山門は真田家霊屋の松寿院霊屋門を移したもの。寺宝として、六代藩主幸弘筆の親鸞聖人真向き御影、聖徳太子像(上越市浄興寺像と姉妹仏)がある。
本誓寺 真宗大谷派 寺町 本尊 瀬踏(せぶみ)阿弥陀如来 ②山号 平林山新田院 ③由緒 親鸞の弟子是信坊信明が建保(けんぽう)元年(一二一三)、倉科(更埴市)の天台宗寺院を改修して本誓寺と号し開基となった。第四世は新田義貞の末男で、以後新田姓になった。室町時代には塩崎康楽寺・長沼浄興寺と並んで信濃三寺の一寺だった。永正(えいしょう)八年(一五一一)大谷本願寺実如(じつにょ)から信州埴科郡倉科平林山本誓寺に「瀬踏阿弥陀仏」と祖師真影の裏書をあたえられた。慶長十四年(一六〇九)現在地に移転、同十五年、松平忠輝か伽藍(がらん)を建て、禁制をあたえた。天保(てんぽう)十一年(一八四〇)火災にあい、宝物を失ったが、今も多くの古文書等を有する。本堂は昭和五十四年、集会所は同六十一年に、庫裏は平成四年にそれぞれ再建された。
大英寺 浄土宗 表柴町 ①本尊 阿弥陀如来座像(脇立(わきだち)観音・勢至(せいし)菩薩立像) ②山号 皓月(こうげつ)山 ③由緒 真田信之室大蓮院(本多忠勝娘)が元和(げんな)六年(一六二〇)没し、信之は小県郡諏訪部村(上田市)常福寺に霊屋(法名大蓮院英誉皓月大禅定尼)を建てた。元和八年松代へ移封のとき、現在地に移した。元海津城の跡地である。大蓮院霊屋(万年堂)はこのとき建てられた。朱印領一〇〇石をあたえられた。享保十九年(一七三四)焼失(万年堂は残る)、寛保二年(一七四二)再建した。明治後、大伽藍の維持が困難になり、堂宇を取りこわし、霊屋を修理して本堂とした。本堂・表門および板絵三十六歌仙図は県宝に指定されている。本堂は五間・五間、入母屋造り、柱や組物には極彩色がほどこされた豪華な建物である。三十六歌仙図は狩野隼人(はやと)正筆、大蓮院の娘見樹(けんじゅ)院(西台(にしのだい))の寄進である。檀信徒会館が平成八年に、庫裏が同十年にできた。
大信寺 浄土宗 紙屋町 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 直得山 ③由緒 境内に鑑貞(かんてい)地蔵の石仏がある。戦国時代、当寺三世鑑貞が霊夢により清野越組の山中で授けられたもので、子育ての御利益で参詣者が多い。明治六年、上三町(紺屋町・紙屋町・馬喰町)を通学区とする松盛学校が置かれた。