松代城は、最初武田氏の北信濃計略の基地として築かれた。のち上杉氏の城となったが、やはり北信濃統治の中心地であった。海津城ができた永禄(えいろく)三年(一五六〇)ころから、上杉氏が転封される慶長(けいちょう)三年(一五九八)まで約三三年間は城代が置かれていた。武田時代の城代春日虎綱(高坂弾正)(在城永禄三~天正(てんしょう)六年、一五七八)は民政のうまい人といわれ、川中島の戦いが有名になったのは、虎綱や副将だった小幡(おばた)氏の縁者が高坂弾正の著書として『甲陽軍鑑』を世に広めたことがきっかけになっている。しかし武田氏が滅び、川中島地方が上杉・北条・徳川など有力大名の取り合いの地になると、海津城代の地位はたいへんむずかしいものになった。天正十年春日信達誅死(ちゅうし)、天正十二年村上景国失脚、天正十三年上条宜順(じょうじょうぎじゅん)出奔、慶長三年須田満親自殺と四代つづけて不遇な終わりになっている。信達は北条氏に通じていると疑われて殺され、村上景国は副将屋代秀正が徳川家康方に走ったことで疑われ、失脚した。景国は上杉家臣の筆頭の地位にあったが、名門村上氏はこの事件で事実上滅びた。上条宜順は畠山家から入って謙信の養子になった人で、妻は景勝(かげかつ)の妹である。豊臣秀吉に招かれて出奔した。須田満親は信濃侍の筆頭であり、海津城を整備したらしいが、転封にあたり申し開きのできぬことがあったらしく自殺した。しかしその家は転封後も信濃侍の筆頭の待遇をうけている。このように、海津城代には重要な人物があてられ、それだけむずかしい地位であった。