近世初期の城主

361 ~ 362

田丸直昌(在城慶長三~五年)は最初の城主である。しかし豊臣家派遣の大名であった。田丸のとき本丸の土塁が石垣に改められたのは理由のあることであった。信濃で金箔瓦(きんぱくがわら)の葺(ふ)かれていた城は松本・上田・小諸の三城だけで、いずれも豊臣系の大名の城であり、豊臣氏の資金、技術両面の援助をうけて建てたと考えられる。しかし秀吉は慶長三年に死に、家康の力は急速に大きくなり、田丸は関ヶ原戦の直前に転封させられ、家康の腹心森忠政(慶長五~八年)が城主になった。一三万七五〇〇石、ほぼ川中島地方(北信)全体の領主であった。忠政は総検地をおこない、北信濃約一四万石は一挙に約一九万石に増加した。

 森についで家康の六男松平忠輝(慶長八~元和(げんな)二年、一六一六)が城主となるが、忠輝は若く、実権は家康の奉行大久保長安がにぎり、その腹心花井吉成が城代になった。吉成は新技術を取り入れて川中島地方の水利開発に貢献した。「松城」の字が使用されはじめるのもこのころである(初見は慶長九年五月)。忠輝か取りつぶされたあとに入った松平忠昌のとき、松代藩は一〇万石になった。忠昌が高田へ移るのと入れ替わりに入ってきた酒井忠勝が出羽庄内(でわしょうない)へ移ったのち、元和八年真田信之が上田から移ってきて、目まぐるしい城主交代はようやく終わり、以後廃藩まで一〇代、真田氏が城主であった。