藩祖信之 信之の父昌幸は武田氏滅亡後大名になり、豊臣・徳川・北条・上杉等の大勢力にはさまれてよく家を保ったが、その間に信之は家康の配下となり、家康の将本多忠勝の娘を娶(めと)って徳川家と深い関係をもった。関ヶ原戦に父と弟信繁(のぶしげ)(幸村)は西軍に属し失脚したが、信之は東軍にとどまり、父の遺領をあたえられた。元和八年(一六二二)松城に移封(いほう)させられた。松城一〇万石(内高は約一二万石)を領し、長子信吉に上野沼田三万石をあたえた。
二代信政 信之は九二歳でようやく隠居した。近世初期には外様(とざま)大名が多く取りつぶされたので、徳川に縁故の深い自分が少しでも長く藩主の地位にあったほうが藩が安全だと思ったらしい。長子はすでに死んでいたので、次子で沼田城主たった信政があとを継いだ。母は本多忠勝の娘である。大勢の沼田侍を連れてきた。ところが在城わずか六ヵ月で死んでしまった。
三代幸道 信政が死んで嗣子幸道はわずか二歳、沼田城主信利(信吉の子)は壮年で、その母は時の老中の叔母であった。相続争いが起きそうになったが、藩士が結束して幸道を推したので、相続が決まった。この事件が解決してのち、信之は九三歳の天寿を全うした。上田城主二二年、松城城主三五年、まれにみる長寿であった。蓄財にも長じ、遺金は二七万両もあった。幸道は寛文(かんぶん)六年(一六六六)領内全村の差出検地帳をつくった。今までの村高を変えないで持ち主を確認した検地であった。その後も松代藩は総検地はおこなわなかった。部分的な検地はおこなわれたが、六尺五寸竿(幕府は六尺一分竿)でかなり寛大たった。正徳(しょうとく)元年(一七一一)幕命により松城を松代と改名した。藩財政ははじめ余裕があったが、明暦大火後の江戸城の普請など何度もの賦役で疲弊した。そのうえ、享保(きょうほう)二年(一七一七)湯本火事という大火で城下の六割が焼け、城がほとんど全焼する大被害をうけた。
四代信弘 幸道の子は早世したので兄信就(のぶなり)の子が継いだ。信就の母は小野お通(二代目)。初代お通は著名な芸能人で藩祖信之と親しく、その娘が信政の京都妻になっていた。信弘は藩財政の窮迫により節約につとめた。嫡子は俳諧が好きだったが、俳諧師匠に払う添削料がなくて家臣に借用を申しこみ、小遣いの少ないのを憤慨している手紙が残っていて、藩主家族も生活費の節約を強いられていたことがわかる。町人だった塩野儀兵衛を勝手係に登用して財政の回復につとめた。
五代信安 原八郎五郎が塩野についで家老格、勝手係になった。原は年貢月割り上納、知行地半知借上げ制などの新政策を実施した。半知は享保十四年ころからときどきおこなわれており、原はそれを制度化した。事実上知行主藩士の俸給を半減するものであったから、猛反対があり、原は『松代町史』でも悪者にされているが、この半知や月割上納制は、つぎの恩田木工(もく)の改革にも継続されている。
寛保(かんぽう)二年(一七四二)八月千曲川が戌(いぬ)の満水といわれる大洪水をおこし城の堀は全部埋まり、石垣もかなり崩れる大被害をうけた。幕府から一万両借りたがとても間に合わない。このころ足軽の俸給の支給も滞るようになり、寛延(かんえん)二年(一七四九)九月足軽小頭七五人が月番家老恩田木工に足軽の給料の滞っていることを訴え、夜中まで座りこんだ。それでもなお給料は年末まで支給されなかったので、翌三年正月元日から足軽は一人も出勤しないという騒ぎになった。藩は寛延三年、田村半右衛門を新たに召し抱えて勝手方にし、原を不正ありとして罷免、処罰した。田村は郡奉行(こおりぶぎょう)、代官など役付きのものに御用金を課し、また増税を布告した。このため翌年八月山中から田村騒動といわれる百姓一揆(いっき)がおこり、田村は失脚した。
六代幸弘 父が三九歳の壮年で死んだので一三歳で家を継いだ。宝暦五年(一七五五)前代から家老だった恩田木工民親を勝手係にして財政改革をおこなわせた。この改革は『日暮硯(ひぐらしすずり)』などの本で有名になった。木工は専心改革に取り組んだが宝暦十四年四六歳で病没した。綱紀粛正などには効果はあったが、財政を大改革するにはいたらなかった。木工の死後、明和二年(一七六五)また千曲川洪水で城が大被害をうけ、本丸御殿が使用できなくなり、花の丸に御殿を新築、また千曲川本流を城から遠ざける工事をおこない、御殿は明和七年に、川の工事は同九年にいちおう落成したが、いくらか改善に向かっていた藩財政はさらに緊迫の度を加えるようになった。
七代幸専 彦根藩主井伊直幸の四男で幸弘の養子となりその娘を妻とした。家を継いで間もなく江戸の川浚(かわざら)い普請(ふしん)を命じられ一万六〇〇〇両を献金した。このため領内に倹約令を出した。
八代幸貫 幸専は実子がなく白河藩主松平定信の次男を養子にした。定信は将軍吉宗の孫で老中筆頭として寛政改革を断行したことで知られる。幸貫は体も大きく活発、積極的な性格で、改革を推し進めた。家柄にかかわらず能力あるものを引き立てる方針で、佐久間象山、長谷川昭道(しょうどう)等を下士から抜てきして要職につけた。生活は質素だったが、軍備を充実し、また幕府の老中になり、出費がかさんだ。そのうえ、弘化四年(一八四七)の大地震で領内が大被害をうけ、その復興のため、疲弊した領内へ新税を課さざるをえなくなった。藩内には恩田党と真田党との対立が激しくなった。
九代幸教 幸貫の孫で、父が若死にしたので一八歳で家を継いだ。真田桜山(おうざん)・長谷川昭道らの真田党と恩田頼母(たのも)・佐久間象山らの恩田党の対立が激しくなった。真田党は尊皇攘夷派、恩田党は公武合体派になっていった。象山は門人吉田松陰の密航事件に連座して蟄居(ちっきょ)させられたが許され、元治(げんじ)元年(一八六四)幕府に召されて上京、間もなく幸教も京都御所守護を命じられて上京した。公武合体派として活躍していた象山が暗殺され、ついで起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変にも松代藩は長州藩と内通していて戦わなかった。
一〇代幸民 四国宇和島藩主伊達宗城(むねなり)の二男。慶応二年(一八六六)一七歳で家督を継いだ。明治元年(一八六八)甲府、飯山などへ出兵、戊辰(ぼしん)戦争には千七百余人が参加し、新政府軍の有力部隊として活躍、会津若松城攻撃では「薩長真田に大砲なくば」と城兵を歎ぜしめたといわれ、幸貫のときに装備した武器が大いに活用された。参謀山県有朋(やまがたありとも)が「薩長のほか頼りになるのは松代兵だけ」と書いているように、各地で奮戦、戦死五二人、三万石の賞をあたえられた。このように松代藩は一貫して挙藩勤王の立場を貫いたので、新政府へ多くの人材を送りこむことができた。しかし、藩債は一〇〇万両に達し、その半分は領民からの借入であった。