松代領の村々では松代町を「お町」と敬称をつけてよんでいた。このいい方は現在も一部に残っており、近世に松代が領民にとって畏敬(いけい)すべき中心地であったことがわかる。尼巌(あまかざり)城が本城だったころ、東条地区に小城下町が形成されたが、海津城が築かれると、町や寺が移ってきた。町民の一部は春日虎綱とともに甲斐から移ってきたと伝えている。田丸直昌のころには城も町も大体の形ができた。町の中心部を北国脇往還(ほっこくわきおうかん)が通る。清野側から馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋(こんや)町など職業の名のついた町が並ぶ。この三町は総構(そうがま)えの外で上(かみ)の三町という。ついで西木町・中木町とつづき、ここで鉤(かぎ)の手に曲がって北に向かい、伊勢町・中町・荒神町(本町(ほんまち)三町)が連なり、その東裏に鍛冶(かじ)町・肴(さかな)町(脇の二町)があった。木町は少し遅れてできたためか、伊勢町の一部とされた。合わせて町八町(まちはっちょう)といわれた。肴町・鍛冶町の東には田町があった。町屋のほかは武家屋敷で城に近いところに重臣、城から遠くなるにつれて中・下級の家臣の屋敷があった。大御門(おおごもん)の前の東西の通りは殿(との)町で上級家臣の屋敷地であった。殿町につづいて片羽(かたは)町・厩(うまや)町などがあったが、今は殿町にふくめている。紙屋町・馬喰町の北に清須町がある。
上の三町の南に有楽(うら)町・竹山町・代官町・表柴町・裏柴町・御安(ごあん)町・袋町・松山町などの中・下級藩士の屋敷町が連なる。主に武家屋敷だったが庶民の住居もまじっていた。
時代が下がるにつれ町外町(ちょうがいまち)などが増えてきた。馬喰町の西につづいて新馬喰町(清野村分)が、馬場町の南につづいて同心町(西条村分)が、御安町・松山町の南から東にかけて荒町・上十人町(東条村分)などができたが、これらはもとの村にそれぞれ属していた。