五代藩主信安は寛延(かんえん)三年(一七五〇)六月、田村半右衛門を雇い入れて財政改革にあたらせた。田村は奉行・代官・手代など役付きのもの、収賄など不正のあったものなどに献金を命じた。田村は同四年七月、松代に来て、八田競(きそう)宅に滞在、八月四日、村々の肝煎(きもいり)・組頭・頭立(かしらだち)・小前総代などを呼びだし、「今年から検見(けみ)の役人は出さず、宗門人別改めの役人も出さない。そのほか、百姓に費用を出させることは一切やめる。そのかわり本年貢のほか高一〇〇石につき籾(もみ)一五俵ずつ出せ」、そのほか種々の条件を示し、請書を書けといった。村役人たちは承服せず、田村は七日にもう一度出頭せよと申し渡した。七日に山中の百姓が大勢松代へ押しだし、藩に強訴(ごうそ)し、一部のものは「田村を出せ」と騒いだので、田村は江戸へ逃げ帰った。翌日、役人は「万事古来どおりにする」と申し渡して百姓を退散させた。
田村の施策にはある程度見るべきものがあったらしいが、国元の役人や村方への根回しがほとんどできておらず、けっきょく田村の改革は失敗に終わった。この騒動では処罰者は出なかったらしい。藩ではこの日に村役人らを招集してあり、村役人たちも最初は数ヵ村で嘆願するという程度であったのが、だんだんエスカレートして一揆(いっき)のようになったので、藩は徒党一揆とは扱わなかったのであろう。藩内に田村の改革に反対する空気があったことも、処罰者を出さなかった理由の一つであろう。この騒動につづく天明四年(一七八四)の山中(さんちゅう)騒動でも、重罰は首謀者と目された人の永牢(えいろう)が最高で、それも最後は病気で釈放されている。