同業者の町からふつうの町へ

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伊勢町・中町・荒神(こうじん)町は本町(ほんまち)といわれ、城下商人町の中心であった。伊勢町のつづきに枝町の木町ができた。本町裏や清野口の上(かみ)三町は同業者の町であった。城下町でははじめ同種の商人が同じ町に集住してその職業の名がそのまま町名になっていることがよくあった。馬喰(ばくろう)町・紙屋町・紺屋(こんや)町(以上上三町)、本町裏の鍛冶(かじ)町・肴(さかな)町などである。それらの町々でははじめ紙屋町は紙というように現物を税として納めていたが、しだいに金納に変わり、紙屋でないものが紙役銀という税を納めるというようになった。

 紺屋町は明治五年(一八七二)、一〇六戸のうち、紺屋は二軒だけ、士三、卒一六のほか、生糸・まゆ一三、古着一一、郷宿(ごうやど)八、揚酒(あげざけ)煮売八、呉服五、小間物四、荒物四、提灯(ちょうちん)・たばこ・指物(さしもの)各三などさまざまな職業がそろっており、湯屋もある。同年の鍛冶町は、鍛冶は一軒もなく、士五、卒一四のほか、日雇九、古着七、紺屋五、香具五などで、紺屋は紺屋町より多く、郷宿は一軒もない。紺屋町にくらべて裏町の色彩が強い。近世初期の「同業者の町」は、城下町の発達につれ性格が変わって、住民や領民の需要に応ずる町に変化してきた。