近世後期、北信濃では養蚕・製糸や木綿生産がさかんになった。製糸の中心は松代、木綿の集散地は善光寺町だった。文化年間松代に糸市が立つようになった。製糸業は糸元師が挽子(ひきこ)に賃引きをさせて製品を集めていた。糸元師は文政二年に糸元師仲間をつくった。同十三年には領内に糸元師が一二二人おり、うち松代在住者が六九人と過半を占めていた。
藩ではこれらの産物を監督、統制するため産物御用係を設け、有力商人八田嘉右衛門を係にし、文政九年(一八二六)には糸会所を設け、嘉右衛門が取締役に、その他一三人が会所役員に任ぜられた。糸市の取引高は文政二~九年ころは年二万両以上あったが、だんだん減ってきた。藩は天保(てんぽう)二年(一八三一)紬(つむぎ)市を開設し、ついで糸会所を拡充して産物会所とした。産物会所は木綿の統制も始め、領内各所に木綿改会所を設けた。
このため善光寺町は苦境におちいり、同五年、松代藩の木綿専売の廃止などを幕府に訴えた。嘉永元年(一八四八)には佐久間象山の立案で甘草(かんぞう)・杏仁(きょうにん)の専売制を始めた。慶応元年(一八六五)には領内二三ヵ所に産物会所を設け、従来からおこなわれていた商人の鑑札制度を強化した。これらの制度はいろいろな産物が生産販売されるようになった時勢を反映するもので、藩は冥加(みょうが)金(営業税)の徴収などにより一定の収入を得た。しかし、目的が藩の収入を増やすことだったから、領民の協力も十分でなく藩財政を建て直すほどの効果はなかった。