廃藩によって大打撃をうけた松代の経済を支えたのは製糸業であった。政府は模範工場として群馬県富岡製糸工場を建設、明治五年十月操業を開始した。長野県へも工女募集の知らせがあったが「生血を取られる」などといううわさがあってほとんど応募者がなかった。松代町と周辺一二ヵ村の副区長だった横田数馬は、工女募集の責任者として次女英(えい)など一六人を明治六年三月富岡へ送りこんだ。うち一一人は士族の出で旧家老(戊辰(ぼしん)戦争の指揮官)河原均の娘など名門の娘もふくまれていた。英は出発にあたり父から「家の名を落とさぬよう、他日この地に製糸場ができたとき差し支えないよう修行せよ」と申し渡された。
一年三ヵ月の研修を終えた英らは、同七年八月、できたばかりの西条村製糸場(十一年から六工社)で指導的な地位につき、四年後には長野県営模範製糸場の製糸教授になった。英だけでなく製糸業の発展に松代からの富岡伝習工女の果たした役割は大きい。六工社は日本の代表的製糸工場になり、同八年、松代の生糸の産額は上田・諏訪・岡谷につぎ、県内四位になった。同十八年、殿町に六工社製糸場ができた(明治四十五年本六工社に統合)。
松代には座繰(ざぐり)の小製糸工場がいくつもでき明治十六年には八社あったが、大里忠一郎・渡辺九蔵らは同年、座繰揚返(あげかえし)業の小工場を連合して製糸改良会社「松代製糸会社」を組織し、品質を向上させた。明治二十五年、松代町には六工社(工女二三〇人)、松代製糸会社(同二七〇人)、二工社(同五〇人)、三工社(同一〇〇人)があった。町つづき十人町(東条村)に同二十一年松城(しょうじょう)館ができ、三十六年には五五〇釜に達した。明治三十九年には東条に松代町窪田清か窪田館を建て、一時は従業員一〇〇〇人に達した。同四十年ころは松代の町つづきをふくめ製糸工女は約三〇〇〇人に達した。工女はたいてい寄宿舎で暮らしていたが、「昼は芋・豆腐・煮物などが出て、飯は食い放題」でよそより待遇がいいと定評があった(同三十五年十月三十一日『信毎』)。外出も割に自由で、九日、十九日、二十九日の七面さん(御安(ごあん)町蓮乗寺境内)の縁日市には、工女にあわせて近郷の若い衆も繰りだしてくるので、伊勢町・御安町あたりは身動きもできない混雑になった。
松代では和田英ら先駆的工女が出、製糸業が大里忠一郎ら日本近代製糸の創始者ともいうべき開明的人物によって推進されたこともあって、いわゆる女工哀史的雰囲気(ふんいき)はなかった。また、六文銭製糸社長小山鶴太郎は従業員を厚遇するので有名だった。その頌徳(しょうとく)碑が紙屋町大信寺にある。しかし第一次世界大戦後の不況で、大正九年(一九二〇)に窪田館が、同十年に松城館が相ついで倒産し、松代製糸業は須坂・諏訪などの資本に押されるようになった。昭和恐慌による大打撃で昭和六年(一九三一)六文銭製糸工場は廃業したが、原製糸場がそのあとにでき昭和三十六年まで操業した。戦後も製糸および絹加工などが松代町工業の主力を占めていた。