北国往還松代宿と郷宿

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天正(てんしょう)十一年(一五八三)上杉景勝(かげかつ)は「信州・越後往還の商人は牟礼(むれ)から長沼へ通れ」と命じている。善光寺を通るのが古来の本道だが、戦国時代には城のほうが大事だから、長沼城・海津城の城下を通れと命じたわけである。この方針は慶長十六年(一六一一)の松平忠輝の定書までつづいている。しかしこの年、忠輝は柏原・大古間・新町(あらまち)・善光寺・丹波島・矢代・長沼・福島(ふくじま)・川田などを宿に指定した。どちらが本街道か指定したわけではないが、善光寺を通るほうが古来の本道だったので、松代を通る道は北国(ほっこく)往還松代通りとよばれるようになった。雨で丹波島渡が通れなくなったとき主に使われたので、雨降り街道ともいわれた。このころ可候(そろべく)峠にかわる鳥打(とりうち)峠を開いたという。

 松代宿から隣宿への御定(公定)元賃銭は表4のとおりだった。問屋は検断(けんだん)の伴(ばん)家(中町)であった。この元賃銭は正徳(しょうとく)元年(一七一一)に決められたもので、天保(てんぽう)七年(一八三六)当時は三割増しであった。宿人馬は他の宿と同じ一日二五人、二五匹、助郷(すけごう)はなく、大通行の場合は藩へ願いでて村々から助(すけ)人馬の応援を得た。


表4 松代宿から隣宿への賃銭(元賃銭)

 松代藩内村々から町へ出てくるときの常宿を郷宿(ごうやど)といい、天保十四年の調査では三四軒あった。中町・伊勢町に多かった。紺屋町には明治初年に四軒あった。郷宿は一軒一村のこともあり、二三村ももっている郷宿もある。郷宿は御用宿・公事(くじ)宿などともよばれ、提出文書作成や役所手続きに助力し、ときに村の罪人や容疑者が郷宿預けにされることもあり、公的な面ももっていた。