西大滝(飯山市)と福島(須坂市)のあいだの千曲川通船は、寛政二年(一七九〇)西大滝の太左衛門が始めた。松代藩営川船は文政四年(一八二一)反対する太左衛門と和談して始まった。川船会所は城下つづきの東寺尾村の蛭(ひる)川岸(荒神町裏)に置かれ、松代河岸(かし)・寺尾河岸とよばれた。松代への移入が主で、ことに塩が四分の一を占めていた。また善光寺後町の厚連(こうれん)は千曲川通船を営むとともに西大滝の難所を掘り割る工事をおこなったが、成功せず嘉永二年(一八四九)に死んだ。松代藩士横田甚五左衛門、その子九郎左衛門らは厚連の事業を引き継ごうとし、藩主幸貫の援助をうけ大滝掘り割りの大工事を再開した。横田らは同三年、中野代官を通して幕府に一万五〇〇〇両の借用を出願し、幸貫も側面から幕府に陳情したが、幕末多難の折だったので許可は得られなかった。九郎左衛門は嘉永五年、父に先立ち二八歳で死んだ。