近世の長野街道は荒神町から東寺尾をすぎ、鳥打峠のふもとから左折して西寺尾の北口へ出るコースだった。明治四十五年(一九一二)荒神町から西寺尾にいたる道が開かれ、県道長野松代線となった。
地蔵峠越えの道も中世以来使用されていたが、近世にはこの道を中馬が通ると北国街道筋の宿場が疲弊すると称して宿場からの妨害もあり、荷物の往来は自由ではなかった。明治維新後松代士族らの尽力で改修、明治十二年竣工(しゅんこう)、大正十二年(一九二三)小県郡傍陽(そえひ)村(真田町)新田から松代にいたる新田松代線が県道になった。この道は主要地方道長野真田線となり東北信を結ぶ最短の重要な道路となっている。