寛保(かんぽう)二年(一七四二)七月二十八日夜から降りはじめた雨は二十九日夕方から豪雨になり、八月一日には各所で氾濫(はんらん)をおこした。戌(いぬ)年であったことから「戌の満水」といわれる。松代城は千曲川沿いにあるのでほとんど水没の形になり、本丸・二の丸・花の丸の各御殿とも二~三メートルの床上浸水になった。神田川、関屋川も氾濫し城下町全部が水害にあった。松代領内では一二二〇人もの流死者を出したが、城下では新馬喰町(清野分)で三八人の流死者を出したほかは死者は少なかった。殿町付近では馬屋につながれていた馬三二匹が溺死した。馬喰町・清須町あたりでは屋根棟にまたがって救助されたものがあった。この洪水の結果、千曲川の流路を変える瀬直しがおこなわれ、延享(えんきょう)四年(一七四七)ころ着工、宝暦十年(一七六〇)ころほぼ現在の流路になった。しかしその後も水害があり、明和九年(一七七二)ころ、補強工事が完成した(『千曲川瀬直しに見る村人の暮らし』など)。戌の満水から明治四十四年(一九一一)までに、松代町の千曲川などの水害は四一回、およそ七年に一回の割になっている。