近世から明治にかけての松代の主な火災は一三回起きている。享保(きょうほう)二年(一七一七)の湯本火事では本丸御殿が類焼した。同じ年の関口火事で東部が全焼した。明治二十四年東条村中条から出火した一町二ヵ村火事では全戸数のおよそ四割にあたる六六七戸が焼失した。火災にあいやすかったのは伊勢町・中町・鍛冶町などの商人町で、享保二年から明治二十四年まで一七五年間にだいたい五回ほどは焼けている。ほぼ同規模の善光寺町の中心部がほぼ三〇年に一度焼けているのと比較すると、多少少ないようである。ことに代官町・有楽(うら)町・竹山町などの武家町は火災が少なかった。善光寺町では、ほとんど全町焼失の大火が二度あり、五〇〇戸前後焼失の大火も三回あったが、松代町はそれにくらべるといくらかよかった。これは武家屋敷の敷地が割に広く家が密集していなかったためだろう。弘化地震(弘化四年、一八四七)でも倒壊家屋は二〇〇軒あまりあったが、火災はなかった。火災は四月に多く二月、五月がこれにつぎ、一月と九~一二月は大火はなかった。大正十五年(一九二六)上水道ができてからは大火災はなくなった。