文武学校(国史跡)

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八代藩主幸貫(ゆきつら)は学問を奨励し、佐久間象山を学問所の係として学校建設に取りかかり、つぎの藩主幸教(ゆきのり)の代になって、嘉永六年(一八五三)建物が完成、隣接の花の丸御殿の火災などで遅れ、安政二年(一八五五)開校した。敷地約一〇〇〇坪、建物面積約五〇〇坪、剣術所・弓術所・槍術所・文学所・教室(東序・西序)・御用所・藩主居間・門などからなり、廃藩後、他所へ移されていた建物も、元へもどしてほとんど開設当時の姿に復元されている。ことに武術に力を入れ、砲術に特色があった。その成果は戊辰(ぼしん)戦争で発揮され、また明治政府に多くの優秀な軍人を送りこむことができた。明治三年(一八七〇)兵制士官学校、翌年松代藩学校・松代県学校になったが、廃藩置県後、松代小学校の一部として使用された。

 兵制士官学校助教だった牧野毅(たけし)は陸軍少将にすすみ、大阪工廠(こうしょう)の責任者として大砲の改良に功績があった。宮島春松は兵制士官学校に学び、のち陸軍士官学校教官になり、兵学書翻訳に業績をあげ、一転して、雅楽の普及につとめた。松代藩士からは、海軍中将男爵鹿野(かの)勇之進、海軍中将男爵富岡定恭(ていきょう)、その弟海軍機関少将富岡延治郎(のぶじろう)、海軍少将上原伸次郎(しんじろう)、海軍中将男爵伊東義五郎ら、海軍の高官が輩出している。海軍士官養成の海軍兵学校で、富岡定恭が校長、上原伸次郎が教頭だったことがあり、山国信濃の、しかも藩閥に属さぬ松代藩出身者が海軍教育の中心を占めたことは注目すべきことである。