謡曲

387 ~ 387

松代藩は藩祖信之のときから観世(かんぜ)流能役者を雇っていた。藩士のなかには自邸に能舞台をもつものもあった。真田家には能装束や楽器が多く伝来している。明治維新後一時衰えたが、明治末、中町の島田鶴が観世流宗家に学び、師範となり、大正六年(一九一七)、真謡会を組織し、大いに門弟を教えた。

 北信に現在も広くおこなわれている「北信流」は、謡曲で宴会を締めくくるものであるが、これはもともと松代藩でおこなわれていた礼法であるといわれる。