長谷川昭道

388 ~ 388

象山とともに藩主幸貫に見いだされ活躍した。象山が五両五人扶持、昭道が七両三人扶持と、ともに下士出身であったのも似ている。郡奉行(こおりぶぎょう)として民政に功あり、文武学校創設にはその実務を担当した。幕末には藩論を尊皇攘夷に統一した。新政府に召され学校掛となり、大学設立の準備にあたった。現京都大学の前身である。昭道は松代藩出身では第一の功労者で、新政府で重要な地位が待っていたが、明治三年松代騒動で藩主が罰せられそうになったので官を辞し、もっぱら藩主家の弁護にあたり、晩年は真田家の顧問になった。