山寺常山

388 ~ 388

漢学者として知られ、鎌原桐山(かんばらとうざん)・佐久間象山と並び松代藩の三山といわれた。郡奉行として治績多く、幕末には藩の参謀として幕府、諸藩との交渉にあたった。新政府から召されたが応ぜず、明治三年の午札(うまさつ)騒動にはその始末に専念した。その碑が長野城山と竹山町の屋敷跡に建てられている。竹山町の碑は孫の塩野季彦の建てたもの。