重要文化財に指定されている民家は全国に二百余軒ある。ところが武家屋敷の指定は横田家が五番目である。松代にはほかに前島家(市保管)・樋口家(国保管)をはじめ、武家屋敷がいくつも残っている。ことに旧武家町が近代的都市にならないで、旧観を多く残しているのが特徴である。昭和五十六年(一九八一)、長野市は松代町を調査、「伝統的建造物群保存対策調査報告書」をつくり、松代を「庭園都市」と名づけた。「新御殿から乙女の滝(神田川上流)が見える」といわれた。神田川などの清流は代官町・馬場町・表柴町などの武家町をへてはるか城内におよんでいた。武家屋敷には泉水があり、その水は共同の水として大切にされ、町全部が庭園になっていた。明治維新後、松代からは人材が輩出したが、それらの人びとは中央で活躍し、町は発展を長野に奪われて、住宅地が商工業地に転換することはなく、幕末ころの景観をそのまま残すことになった。
長野市は昭和五十八年「長野市伝統環境保存条例」を定め、代官町・馬場町・表柴町を伝統環境保存区域として、建築物・庭園などの保存のための修理などに一定の補助をして伝統環境の保護につとめてきた。その結果、三町の景観は改善され、近世中級武家町の面影がかなり復元された。三町の区域外でも必要に応じ助言補助し、その結果、修理された殿町歳寒亭(小山田邸)は平成十一年度長野市都市景観賞を受賞した。補助金交付は平成十一年末に五七件に達している。このように広い範囲の地域で武家町の保存復元のおこなわれている例は全国に少なく、「一〇万石以上の城下町で市にならなかったのは松代だけ」といわれたことばは、今は「一〇万石以上の城下町で武家町のよく残っているのは松代が代表」といい直さねばならない。