真田祭り

392 ~ 392

松代町の主な祭りは祇園祭と恵比須講だったが、これは松代を中心としたいわゆる一町五ヵ村の祭りだったので、松代をもっと広く宣伝する意味をふくめて、昭和三十一年から真田祭りがおこなわれている。九月第三日曜日をふくむ二日間おこなわれてきたが、第四四回目の平成十一年には十月十日体育の日をふくむ二日間おこなわれた。この祭りの中心の一つは武者行列である。藩祖信之役は真田家当主が勤める。信之の後にしたがうのは信之に殉死(じゅんし)した鈴木忠重の子孫である。信之は九三歳の天寿を全うしたので、忠重も八五歳であった。大坂の陣で幸村は大坂城の将となり、上田真田氏は攻撃軍に加わった。しかし互いに憎みあうことはまったくなかった。幸村は一時の和睦のあいだ、姉に手紙を送って国許の人びとに迷惑をかけていることを詫び、またその子真田の将小山田之知とも談笑した。幕末の動乱にも藩内に対立はあったが、最後は尊皇攘夷に藩論が統一された。松代町のなかには、旧士族と町民との違和感はまったくなく、ともに由緒ある町を保存、発展させようと努力している。