東条地区は近世のはじめには、東条・田中・加賀井(かがい)の三ヵ村で、このうち田中村・加賀井村は明治までそのままつづいたが、東条村にはいくどかの変遷があった。寛文(かんぶん)二年(一六六二)に長礼(ながれ)組が独立して長礼村となり、延享(えんきょう)二年(一七四五)には東条本村が北組・南組に分かれた。また寛延(かんえん)四年(一七五一)には、荒町および町組が独立し、さらに文政二年(一八一九)には笠原山の開拓地が滝本新田村として独立した。
明治四年(一八七一)九月制定の松代県の仮戸籍区では、東条・加賀井・滝本新田・長礼・田中の五ヵ村は八小区となった。ほぼ現在の東条地区と同じ範囲である。同五年の長野県の戸籍区では、そのまま松代周辺の村々とともに第二九区となった。同七年七月、長礼・滝本新田・南北両組・荒町・町組・東条は合併して東条村となり、大区・小区制では第一三大区第七小区となった。この東条村は明治九年五月三十日付で田中村・加賀井村と合併して、新しい東条村が発足した。
明治七年ころから、東条村と松代町とのあいだに境界論がおこった。東条村では御安(ごあん)町・鏡屋町・鍛冶(かじ)町・肴(さかな)町を流れる街路の用水を境界とすることを主張し、松代町は関屋川(蛭川)を境界だと主張して紛糾したが、明治九年五月三十日、田町・十人町を東条村へ編入して境界は確定した(『町村誌』)。明治十八年の連合戸長制では、東条村は松代町・西条村と連合して松代町ほか二ヵ村連合戸長役場をつくった。
明治二十二年の町村制施行当時は、戸数四七一戸、人口二二一八人を有して独立に耐えるものとされ、以前のまま東条村が継続した。役場は東屋地(ひがしやち)に置いた。この東条村は以後昭和二十六年(一九五一)までつづき、松代町へ合併し松代町東条となった。松代町は昭和四十一年に長野市へ合併した。
現在の行政区域名は、松代第一三区(上荒町・荒町・馬場・東荒町)、一四区(上十人・田町十人・東十人)、一五区(田中・柳町・長礼・加賀井)、一六区(中川・滝本・岩沢・菅間(すがま))、一七区(瀬関(せせき)・竹原・般若寺(はんにゃじ))、一八区屋地、三三区皆神台(みなかみだい)(昭和五十一年発足)、三四区松代温泉(同五十二年発足)の八区である。