『県史考古』(一)の遺跡地名表によると、東条地区には古墳一四ヵ所をふくめて一九ヵ所の遺跡が記載されており(隣接地区にかかるものを除く)、山腹から山麓(さんろく)にかけて分布している。中川から般若寺(はんにゃじ)にかけての一帯からは縄文前期の石鏃(せきぞく)や黒曜(こくよう)石が出土する。また縄文中期の土器や磨製石器が皆神(みなかみ)山北西の中条(ちゅうじょう)付近の台地上から出土している。さらに近くの東寺尾の松原遺跡からは縄文時代の大集落が発見された。弥生(やよい)時代の遺跡は屋地(やち)を中心とした一帯にあり、弥生式土器は蛭(ひる)川と藤沢川の二つの川の扇状地の扇端部から出土する。「ヤチ」の地名の示すように川の出口の湿地帯であり、湧(わ)き水に頼った水田耕作がおこなわれていたのであろう。
古墳は、東部の尼巌(あまかざり)山腹から山麓にかけて多い。明治十六年(一八八三)の村誌(『町村誌』)には、大塚・長塚・白塚・笹塚・姫塚・寄塚の名をあげ、「このほかなお多く散在するが、だんだん破壊され、わずかに遺跡が残るものも名前がわからない」と記している。近世以降の開発によってしだいに掘削され、開墾されたのであろう。現存の古墳一四基はすべて円墳で、そのうち九基が積石塚(つみいしづか)である。また、王塚古墳や笹塚古墳は合掌(屋根)形天井の石室をもち、この形式の古墳のうちではもっとも大きく形が整ったものといわれる。
積石古墳の起源については諸説あるが、この形式の古墳は高句麗(こうくり)や百済(くだら)など朝鮮半島に多いことから、渡来人による築造とする説が有力である。