英多郷・英多荘

403 ~ 403

英多(あがた)郷は『和名抄(わみょうしょう)』にある古代埴科(はにしな)郡七郷の一である。英多郷の範囲はほぼ松代町周辺一帯で中世には荘園化して英多荘となったと考えられている・英多荘の文献上の初見は、文治(ぶんじ)二年(一一八六)の「乃貢未済の荘園目録」で、当時は近衛(このえ)家領であった。元亨(げんこう)元年(一三二一)には、「英多庄松井の住人藤原正長」が戸隠神社へ法華経の版木を奉納しており、建武三年(延元(えんげん)元年、一三三六)には、「英多庄の清滝城」に立てこもった北条方を、守護の村上信貞が市川氏らを率いて攻撃している。松井は大日堂下の地名であり、清滝は東条であるから、東条地区が英多荘にふくまれていたことは確かである。東条のほかに西条もあり、上荒町の周辺に中条(ちゅうじょう)の地名も残り、いずれも英多荘の条であるといわれる。