清滝寺

403 ~ 404

『吾妻鏡(あずまかがみ)』文治二年の「乃貢未済の庄園目録」にある「青滝寺」は「清滝寺」の誤写らしい。清滝寺は清滝の周辺にあった寺で、荘園と同格の規模の大きな寺であったと考えられる(『長野市立博物館紀要』2号)。平安時代の大治(だいじ)六年(一一三一)に「信州清滝寺」で写された「金剛界儀軌(ぎき)」が、加賀(石川県)温泉寺に伝わっていた。また、現清滝観音堂の本尊木造千手観音立像は鎌倉初期の作とされ、明真寺本尊の木造釈迦如来坐像には応永十二年(一四〇五)の墨書銘がある。竹原の石憧(せきどう)(笠仏)や般若寺の五輪塔群も清滝寺に関連した遺物ではないかといわれる。また、松代方面から滝に向かって真っすぐに登る杉並木の参道は古風をとどめており、宝永三年(一七〇六)に書かれた『つちくれかかみ』によれば、当時はこの参道沿いに三重塔や三十六坊のあとが残っていたという。建武三年正月、守護方に抵抗して清滝城に立てこもった軍勢は、清滝寺衆徒の加勢によったもので、清滝寺はこの敗戦によって衰退したのではないかといわれる。