尼巌城(尼飾城)

404 ~ 406

尼巌(あまかざり)山頂にある城で、東条城ともよんだ。切りたった絶壁の上にあり、三方は断崖で北西だけが尾根になっている。守るに易(やす)く、攻めるに難(かた)い城である。松代周辺では古くから、「一にはり山、二に尼巌、三に鞍骨(くらほね)」といい、堅城の代表に数えられていた。おそらく戦国時代からの伝承であろう。ふもとの尾根上に寺尾山城・金井山城があり、尼巌城はそれらの詰めの城だったといわれる。

 尼巌城は歴史的にも古く、鎌倉時代の伝説を伝えている。城主は東条氏だといわれる。海津城ができるまでは、可候(そろべく)峠の要地を押さえ、小県(ちいさがた)方面から善光寺平への出口を押さえる役割を果たしていた。そのためいくたびか攻防のまとになった。天文(てんぶん)二十二年(一五五三)、武田信玄は水内郡山中の大日方氏にたいして、落合氏と東条氏を味方に引き入れるように指示し、同時に真田幸隆にたいしては、「片時も早く尼巌城を攻め落とせ」と催促している。尼巌城や城主の東条氏を重視していたことがわかる。この年尼巌城は落城し、東条氏は越後の上杉氏のもとに走った。弘治(こうじ)二年(一五五六)、信玄は西条氏に尼巌城の普請を命じている。尼巌城は永禄二年(一五五九)ころまで武田氏の番城で、真田幸隆・小山田信行らが在番した。


写真3 菅間王塚からみた尼巌山 山頂に尼巌城があった

 東条氏は、建武二年(一三三五)の佐久郡大井荘の合戦に、島津直久の配下として東条図書助(ずしょのすけ)が名をみせるが、当地との関係は定かではない。室町時代になると、寛正(かんしょう)年間(一四六〇~六六)以降は、諏訪社関係文書に、埴科郡中条の地頭として頭役を勤仕している。越後へ走った東条佐渡守利満は、永禄四年、春日城下の町奉行を勤めた。天正六年(一五七八)の御館(おたて)の乱には上杉景勝に敵対したため知行を没収されたが、同十年には許されて東条の故地を回復した。