文学碑

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天王山頂の芭蕉尾花塚は鴫立庵(しぎたつあん)三世雉啄(ちたく)の筆跡で、天保(てんぽう)三年(一八三二)、松代連中(世話役奥村寸竜)の建立であり、清滝には寺内立左(りゅうさ)の句碑がある。また、玉依比売命神社には国学者大村光枝建立の人丸塚がある。京都の大村光枝は、国学の興隆期に松代藩主真田幸弘の招きに応じて松代を訪れ、藩中へ国学を講義し、長野美波留(みはる)らの門弟を残した。また、大和国(奈良県)葛城下(かづらぎしも)郡の人丸神社の塚の苔(こけ)を移して埋め、「人丸大明神」碑を建立した。かたわらの角柱に、建立の趣意を和文でこまかに記し、「みすずかるかた山かげにうつしもてみかげたかくもあふぎつるかも」の和歌をそえてある。

 戦後になって中村柊花(しゅうか)の歌碑が、真田公園および生家の下の路傍に建てられ、般若寺には山野井国彦の句碑がある。国彦は東条役場の吏員で、大正期松代俳壇の中心人物であった。


写真5 天王山の芭蕉尾花塚