玉依比売命神社 ①祭神 玉依比売命(たまよりひめのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)・健御名方命(たけみなかたのみこと) ②由緒 東条の産土神(うぶすながみ) 『延喜式』に載る埴科郡五社のひとつで、英多(あがた)郷の郷社といわれる。古くは磯並(いそならべ)大明神とか池田宮とか社地の名称をつけてよばれたが、のち玉依比売命神社の社名を允許(いんきょ)された。現在もけやきの大木の並木の参道わきに、池の名残の低地がある。はじめ市川(岩沢)に創建され、のち現在地に移ったと伝えられる。『古事記』によると、玉依比売命は神武天皇の母で、安曇(あずみ)族の祖神といわれる。古くから松代藩崇敬の神社であり、松代藩では毎年玉串御供料(たまぐしごくうりょう)として籾(もみ)五俵を奉納した。明治六年(一八七三)に郷社、のち県社となった。
神官小河原重麿は慶長(けいちょう)九年(一六〇四)、吉田家から川中島四郡の社家目明役に任じられたという。
神社の相殿(あいどの)に祇園(ぎおん)社がある。裏山は天王山とよばれ、松代第一の大祭である祇園祭には、ここで天王おろしがおこなわれ、神輿(みこし)もここから出た。境内の神輿倉に収められた神輿は、慶長九年松平忠輝の寄進と伝えられ、市の文化財に指定されている(現在祭りに使用するのは嘉永六年の制作)。祭礼には城下中町に仮屋を設けて遷座し、競馬や大門(おおもん)踊りなどの余興をおこない、近在屈指の大祭であった。拝殿は、近在ではめずらしい八棟(やつむね)造りで、天保四年(一八三三)の再建である。嘉永六年(一八五三)両角吾仏撰と弘化二年(一八四五)月国撰の二面の俳額が奉納されている。境内には国学者大村光枝の和文碑がある。
児玉石五九一個は県宝に、御田祭(おたまつり)・児玉石神事・御判神事は市の無形民俗文化財に指定されている。
熊野出速雄神社 ①祭神 出速雄命(いずはやおのみこと) ②由緒 東条地区の南にある皆神山の頂上に祭る神社である。皆神山は円錐(えんすい)型の独立火山で古くから信仰の対象とされ、神家とともに修験(しゅげん)の和合院が神社に奉仕した。現在山頂の神社は豊栄(とよさか)地区に属するが、大日如来の台座には「埴科郡英田(多)庄東条村群(皆)神山」とあり、東条地区にとっても関係の深い山である。北ふもとの大日堂から表参道がつづき参詣者が多かった。また、境内には和合院の祖先を祭る侍従坊大神もある。松代近辺では、侍従坊の弟子にすれば丈夫に育つといわれる信仰があり、こどもが生まれると、参詣する風習があった。
そのほか東条地区には、住吉社(加賀井村鎮守)・諏訪社(長礼村鎮守)・松井社(田中村鎮守)などがあったが、いずれも明治以後、玉依比売命神社に合祀(ごうし)された。