浄福寺 曹洞宗 東条田中 ①本尊 釈迦如来(しゃかにょらい) ②山号 尼巌山 ③由緒 文明(ぶんめい)三年(一四七一)東条左衛門尉(さえもんのじょう)の妻春日尼の遺志により長礼(ながれ)に常福庵を開いた。天正十年(一五八二)絵準が開山となり、須田満親(みつちか)が中興開基となって浄福寺と改称し、文禄(ぶんろく)元年(一五九二)、現在地へ移った。同三年満親は二〇石を寄進したと伝える。近世には幕府から朱印領一〇石をうけた。境内には須田満親の墓と伝えられる五輪塔がある。昭和四十七年(一九七二)、長礼の旧寺地(寺屋敷)から移したもので、高さ一六一センチメートルあり、近在ではめずらしい大きさである。旧寺地は可候(そろべく)峠に通じる古道沿いにあり、石垣などが残っている。満親は天正十三年六月から慶長三年(一五九八)正月まで海津城代をつとめた。また豊臣秀吉にも重用されて豊臣の姓を名乗り、朝鮮の役にも活躍したが、上杉氏の会津への移転のさいに急死(一説に自殺)した。
清滝観音堂 ①本尊 千手(せんじゅ)観音 ②由緒 本尊は秘仏で一木造り、信濃十一番札所である。もと清滝の下にあり、高さ三丈の舞台造りのお堂だったが、文政三年(一八二〇)の野火で焼失し、同五年現在地へ移した。滝の下には現在は阿弥陀堂がある。『つちくれかかみ』には、宝永(一七〇四~一一)のころ、この滝に観音が示現したということが評判になり、二〇里・三〇里の遠方から人びとが群参したという記事がある。また虫歌・清滝・保科は一木三体の仏像だと伝えられ、三ヵ寺参りでにぎわったという。養蚕がさかんになるとその守護仏として信仰され、滝の下には佐久間象山書の「竜精(りゅうせい)(蚕の異称)之碑」(明真寺境内にある碑の複製)がある。俳句額のほかに、狂歌の奉納額がある。文政七年、松風庵の奉納で、松代での狂歌の盛行を物語るものである。風神・雷神門は瀬関組の寄進で、近在ではめずらしい。
明真寺 真言宗 菅間 ①本尊 釈迦如来 ②山号 仏地山 ③由緒 清滝観音の別当寺。本尊釈迦如来の胎内には、「応永十二年(一四〇五)」の銘がある。古代の清滝寺のあとをつぐ寺で、中世以来衰微していたが、元禄六年(一六九三)僧円如坊が再興したという。
東光寺 真言宗 岩沢 ①本尊 釈迦牟尼仏(むにぶつ) ②山号 阿弥陀山 ③由緒 古くは真言宗で龍華山密蔵院蓮(練)光寺といい、等覚院・満蔵院などの脇坊もあった。慶長三年(一五九八)、海津城主田丸直昌(ただまさ)が鎮守として東条諏訪明神を城下へ勧請(かんじょう)したとき、練光寺も移してその別当寺とした。岩沢の旧寺地へは等覚院が東光寺と改称して残った。練光寺は、明治二十四年(一八九一)の松代大火ののち廃寺となった。練光寺から引き継がれた東光寺文書八通は、市の文化財で、村上景国・松平忠輝・酒井忠勝ら歴代領主の朱印状などを伝えている。仁王門は元禄十六年、万人講によって勧進(かんじん)寄進されたものである。
歓喜寺大日尊 東条前山 ①本尊 大日如来 ②山号 幽洞山 ③由緒 この如来は以前は皆神山頂の和合院に安置されていたと伝えられ、永正(えいしょう)四年(一五〇七)に大日寺を建立したという胎内銘がある。慶応四年(一八六八)山火事によって堂宇すべてを焼失した。境内に清水がわき、それを溜(た)めた大日の池は灌漑(かんがい)用水池となっている。この泉が皆神(水上)の地名の起こりだという説もある。明治時代に皆神山信仰がさかんだったときには、信者のみそぎ場となって、入り口には大鳥居が立ち、茶屋もできてにぎわったという。
善徳寺 浄土宗 東条 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 観音山 ③由緒 寺伝によると、嘉吉(かきつ)元年(一四四一)、中川善仲が自家に観音堂を建立安置して礼拝したのがはじまりで、没後善徳があとをついで開基となり、明応(めいおう)二年(一四九三)、現在地へ寺堂を建立した。寛永元年(一六二四)大誉が開山した。現本堂は文化四年(一八〇七)高誉の建立である。
実相院 曹洞宗 般若寺 ①本尊 釈迦如来 ③山号 無漏山(むろうざん) ③由緒 慶安二年(一六四九)に、松代藩士出浦幸生が開基となり、大林寺の住職長巌の隠居所として開いた。寛文二年(一六六二)、松代藩主真田信政は除地二石余と年々扶持米八石四斗を寄進した。