村高は、『正保(しょうほう)郷帳』で一〇七〇石余あり、埴科郡内では大村であった。内訳は田五五四石余(五一・八パーセント)、畑五一五石余(四八・二パーセント)で、田のほうがわずかに多かった。松代城下に接して武士屋敷があり、慶応年間(一八六五~六八)には在郷足軽も五五人と多かった。『元禄郷帳』には、東条村の枝村として南川・北川・中岩沢・上岩沢・須蒲(すがま)(菅間)・畑中・般若寺・竹原・瀬々木(瀬関)・荒町・長礼・外田町・御安口(ごあんぐち)の一三ヵ村があげられている。本村以外の集落は、松代の城下町つづきから尼巌山(あまかざりやま)の中腹にかけて散在していた。文化六年(一八〇九)の人口は七〇三人であった。他村と比較すると、一打(いちうち)百姓(本百姓)が多く、判下(はんした)は少ない。
明和七年(一七七〇)、東条村では、洪水除けに関屋川の拡幅工事をした。用地にあたる伊勢宮の社地は、川筋が変わったら帰すことを条件に借用し、藩では神主の年貢のうち用地分を免除した(「災害史料」)。