清滝のすぐ下、標高約六〇〇メートルの地点に位置する。文化年間(一八〇四~一八)、斎藤治右衛門らが南組地籍の笠原山を開墾し、文政二年(一八一九)に滝本新田村として独立した。移住にあたって産土神(うぶすながみ)として諏訪社を勧請(かんじょう)し、社殿を建立した。神社の地籍は「清滝大門南」と記載されている。近世末には戸数六軒で、村高は本田一石三斗九合、新田は籾(もみ)二四俵二斗八升余であった。清滝観音堂があり、ときには参拝客でにぎわった。
滝本新田
清滝のすぐ下、標高約六〇〇メートルの地点に位置する。文化年間(一八〇四~一八)、斎藤治右衛門らが南組地籍の笠原山を開墾し、文政二年(一八一九)に滝本新田村として独立した。移住にあたって産土神(うぶすながみ)として諏訪社を勧請(かんじょう)し、社殿を建立した。神社の地籍は「清滝大門南」と記載されている。近世末には戸数六軒で、村高は本田一石三斗九合、新田は籾(もみ)二四俵二斗八升余であった。清滝観音堂があり、ときには参拝客でにぎわった。