尼巌山のふもとにあり、中世の可候(そろべく)峠に通じる街道に沿っている。慶長七年(一六〇二)の検地帳によると、村高は一四二石で名請け人は二六人、戸数一二軒の小村であった。村高の内訳は田一一七石余(八一パーセント)、畑二六石余(一九パーセント)で大部分は水田であった。以後江戸時代を通じて村高はほとんど変わらず、明治の『旧高旧領』でも一四三石である。すでに江戸時代の初期に開発されつくしていた。低湿地で蛭(ひる)川(関屋川)の氾濫溢水(はんらんいっすい)に悩まされた。天明元年(一七八一)、藩では持高が少なく引き負い(負債)が重なっているとして五ヵ年間郡役二人分を免除した。天保(てんぽう)十一年(一八四〇)の加賀井村の年貢率は、二ッ一分(二一パーセント)で、他の村に比較してきわめて低かった。藩では洪水除けの堤防(加賀井堤防・大熊堤防)を築いて保護した。
江戸末期には、温泉の発掘が試みられた。明和三年には、四ヵ村連名の小屋がけの願書が出され、文化二年には加賀井村で発掘がおこなわれた。