松代の城下町は八町とよばれ、町人は原則として城下に居住し、町奉行の支配をうけた。しかし。城下町の人口はしだいに膨張して隣接の村々へ進出し、宅地化していった。それらの町は町外町(ちょうがいまち)とよばれた。八町以外の町の意味だといわれる。町外町は、「い・ろ・は」順に、い組からふ組まで三二組に分けられた。東条地区に関係した町外町は、な組(田中村のうち御安)、ら組(袋町)、む組(東荒町北組)、う組(東十人町)、ゐ組(東荒町)、の組(外田町)、け組(東条村十人町)の七組である。この七組の文久(ぶんきゅう)元年(一八六一)の家数は一二七軒であった。
文化九年十月の田町・荒町村の「足軽扶持(ふち)御蔵継書上帳」によると、足軽が四八人いた。内訳は、同心が三二人、飛脚組二、普請方、屋根屋、下大工、山札見(やまふだみ)・先手組・木挽(こびき)などで、下級武士や職人もふくまれていた。