明治三年(一八七〇)、藩札(午札(うまさつ))と太政(だじょう)官札の等価引き換えと石代納相場の引き下げを要求しておこった午札騒動は、松代全領に広がり、数万の「人民沸騰(ふっとう)」という状況にいたった。東条地区は当時の担当役人や商社人の家があったためこの騒動に巻きこまれた。
十一月二十六日の朝、松代城下へ突入した上郷(かみごう)の一揆勢(いっきぜい)は、木町の産物会所を焼きはらったのち、加賀井村にあった権大参事高野広馬の屋敷へ押し寄せて居宅・土蔵・門・長屋を打ちこわして全焼させ、一軒を類焼した。また田中村の大日方軍兵衛宅へ押し寄せて、居宅・物置・雪隠を全焼した。
官札と藩札の交換について、はじめ松代藩は農民の要求を加味した折衷案によって難局を収拾しようとしたが、東京駐在の高野は、それをなまぬるいとして認めない新政府の強硬策をもって帰藩したため、午札下落の帳本人とみられ、一揆の標的にされたのである。また大日方軍兵衛は木町の産物会所の番人であったが、一揆を鎮めようとして、刀を振りまわしたのが一揆の反感を買ったといわれる(『片岡志道見聞記』)。
上郷の一揆勢は夕方までに帰村したが、こんどは松代周辺や川中島平の農民が城下に乱入し、収拾のつかない騒動になった。城下町につづく東条地区では、目の前の騒動に難を避けたものもあり、また「出ろや」の声に応じて騒動に参加したものもあった。東条村の良作は木町辺を放火した頭取の一人とされ、加賀井村の五右衛門は日ごろから藩への不満をもらしていたかどで取り調べをうけた。
松代町からは清野の倉科坂をくだるたいまつが、狐火(きつねび)のようにみえたという(『松代庶民の歴史』)。