東条地区の東部の傾斜地は畑で、水田があるのは西部と北部の平坦部(へいたんぶ)だけである。灌漑(かんがい)用水の水源は主として皆神山(みなかみやま)北麓(ほくろく)の湧水(ゆうすい)や藤沢川に頼り、一部奇妙山の谷間から出る宮川堰(せぎ)によっていた。明治の『町村誌』には、宮川堰のほか大日池から流れ出る大日堰(四ヵ組用水)、古藻井から出る古藻井堰(大町用水)をあげている。しかし、いずれも水量が少ないため、しばしば干ばつに苦しんだ。昭和にはいっても水争いが絶えず、水番の小屋で監視をしたり、天王山の上で太鼓をたたいて雨ごいをしたりした(『松代庶民の歴史』)。そのため、古くから松井の泉を水源として、灌漑用溜池(ためいけ)として大日池を築造し、戦前は五一町歩を灌漑した。
いっぽう、中川の宮沢晴英(はるひで)らは、江戸時代の末に菅平(すがだいら)(小県郡真田町)から灌漑用水を引くという遠大な計画をたてた。菅平の大明神沢(真田町)から水を引くために、上州の田代宿(群馬県吾妻郡嬬恋村)の山から鳥居峠へ水を引いて神川(かんがわ)へ落とし、それを替え水として大明神沢から立石をへて、清滝へいたる六里半の用水路の開削を計画したのである。水路の測量を終えたが、加賀井村や東寺尾村の反対によって実現しなかったという。