大熊堤防

420 ~ 420

加賀井村は可候(そろべく)峠の西にあり、村内の最低地で、関屋川(蛭川)・藤沢川の出水時には氾濫(はんらん)し、一帯が湖水のようになった。そのため松代藩では安政五年(一八五八)、細田・大熊・中ノ町・藤沢を囲む水除け堤防をつくった。高さ六尺・馬踏(ばふみ)五尺・土手敷き二間三尺で、長さは一〇〇〇間におよんだ。工事は三年かかって竣工(しゅんこう)した。人びとは堤防の安全を祈って堤防上に治水の王である禹(う)王を祭った。碑は高野真遜(しんそん)(広馬)の撰文で、藩への感謝と堤防の保全の願いが刻まれている。

 しかし、明治後期には、藤沢川・関屋川は大雨のたびに氾濫(はんらん)し、下流の地域は田畑の冠水や床上浸水の被害をうけた。明治四十五年(一九一二)、有志は加賀井耕地整理組合を設立し、旧土手跡を堤防で囲み、ポンプによる排水を実施した。この事業は、神郷(かみさと)村(上水内郡豊野町)の浅川とともに、県下ではじめてのポンプによる排水施設であった。組合員は三三人で、総工費一二万円を要し、大正六年(一九一七)に完成したが、成果は十分とはいえなかった。加賀井耕地整理組合は昭和二十七年(一九五二)土地改良区に組織変更したが、維持費などの出費が重なったため、のちに松代観光開発会社へ用地を集団売却して解散した。旧堤防内は造成されて松代温泉団地となった。