さかんな養蚕地域を背景にして、東条村内にはいくつかの製糸場が生まれた。最初の器械製糸工場は、明治十一年旧松代藩士族によって設立された中条製糸場である。器械は官営富岡製糸工場(群馬県富岡市)のものに習ってつくられ、技術も富岡帰りの海沼(かいぬま)房太郎が指導した。明治二十一年には十人町に松城館(しょうじょうかん)が開業した。はじめ一五〇釜(かま)で発足したが、しだいに増加して最盛期には五五〇釜になり、明治末年には生糸六五〇箇(こおり)を生産するほどであったが、大正十年に倒産した。屋地(やち)の窪田館は明治三十九年の創立で最盛期には八〇〇釜を稼働し、松代町内第一の工場であった。工場は三棟あり俗に千人取りとよばれたが、これも大正九年に倒産した。いずれも第一次世界大戦後の不況によるものであった。