松代地方の養鯉の起源は、藩主幸弘が殖産政策のひとつとして導入したともいい、文化年間(一八〇四~一八)に吾妻(あがつま)銀右衛門が近江(滋賀県)の愛知川(えちがわ)から種鯉をもってきたのが最初だともいうが、幕末期にはすでに営業化され、東条地区がその中心であった。七泉とよばれる東条村内の湧水、とくに瓜割(うりわり)清水と松井泉を利用し、製糸工場から出るさなぎを飼料として活用し、しだいに生産量を増やした。当初さなぎは利用法がなく処分に困っていたという。明治四十年ころから大正前期が最盛期で、養鯉をする戸数は一〇戸以上になり、生産量は三〇〇〇貫目をこえた。それらは、川中島平や善光寺・須坂方面へ販売された。
しかし、昭和七、八年ころには製糸業の不況にともなってさなぎが不足し、また戦争中には食糧増産のために養魚池を水田に転換することが強制された。戦後は水田農薬の普及などによってしだいに衰退した。