天王山焼は、松代焼のなかではもっとも古く、明和年間(一七六四~七二)天王山麓の鋤崎(すきさき)ではじめられ(『長野市の文化財』)、のち文化十三年(一八一六)、松代藩が殖産興業政策のひとつとして、信楽(しがらき)(滋賀県甲賀郡信楽町)の職人を招き、普請奉行の上村何右衛門が掛かりで本格的に陶器の制作を始めたという。主として甕(かめ)・壺(つぼ)・摺り鉢が焼かれたが、黒い土で釉薬(うわぐすり)はほんの飾りとしてつかわれているだけである。生産された期間についても諸説あるが、長くはつづかなかったらしい。
また、松代中町の金右衛門は、安永十年(一七八一)加賀井村に土取り小屋を建てて瓦(かわら)焼きを始めた。冥加金(みょうがきん)は一両であった(「災害史料」)。