寛保の大水害

424 ~ 424

寛保(かんぽう)二年(一七四二)の「戌(いぬ)の満水」では東条地区も大きな被害をうけた。「松代満水の記」によると、東条村の被害は、「家屋流失一一軒、潰れ家一二軒、草山二〇ヵ所抜け、一一人行方不明」、田中村では「八軒潰れ、一人流死、田畑残らず砂入り」、荒町村では「流失三、半壊一二、砂入り潰れ家二、田畑砂入り川欠(かわかけ)」とあり、別に「七軒のうち流失三、潰れ四」とある。加賀井村では「潰れ家六、山抜け二八ヵ所、寺尾からの山抜け九ヵ所」という状況であった。村高の被害率は東条村で四八パーセント」、加賀井村五五パーセント、田中村では六五パーセントにおよんだ(『東条のあゆみ』)。千曲川沿岸の村々に比較すると被害は軽かったが、なお村高の過半におよぶ大被害をうけたのである。東条氏の居館跡である日の丸の土塁(どるい)などが流れたという。