「松代地区の寺子屋師匠と筆塚」によると、東条地区の師匠は一四人、筆塚は九基が報告されている(『信濃』二五-一〇)。師匠の職業をみると、武士が八人と多いのが特徴で、ついで神官・修験が各二人、農民・僧侶が各一人となっている。筆塚は九基あるが、そのうち八基が明治以前のものである。『松代町史』では、師匠として落合瀬左衛門・丸山竜蔵・加藤文八郎・月岡善平・小河原紀伊・宮沢の六家をあげている。開塾の年代は天保(てんぽう)年間(一八三〇~四四)が多く、教授学科は読み方・習字が主であったが、そのほかに丸山は算学、落合は漢学をあげている。宮沢家は、晴宴・晴英・才治・新八郎と四代にわたる寺子屋で、晴宴は漢学に長じ、晴英は用水開発や陶芸・製紙などの開発者であった。落合瀬左衛門の塾は在流斎といい、天保年間から文久年間(一八六一~六四)にかけて男女約一五〇人を指導したという。東条地区は松代城下に接していたから、城下の私塾や寺子屋に学ぶものもあっただろう。