東条学校

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東条学校の創立は明治六年(一八七三)六月一日のことで、これは近隣の学校のうちではもっとも早かった。学区は荒町を除き長礼(ながれ)をふくむ東条村と滝本新田で、竹原の菩提寺(ぼだいじ)を教舎とした。ついで九月には、田中・加賀井・東寺尾・柴を学区とする重陰学校が、十二月には松代学校の荒町支校があいついで開校した。東条学校は明治十一年には、一時海津学校の支校になったが、十五年には重陰(ちょういん)学校から分離した田中・加賀井をふくめて、新たに東条学校となり、ほぼ現在とおなじ学区となった。明治十九年にはまた松代学校東条支校となったが、同二十二年、町村制の発足にともなって独立し、東条尋常小学校となった。校舎は最初善徳寺(ぜんとくじ)を借用したが、翌年現在地に校舎を新築して移転した。

 明治三十四年には、学区内の松城館(しょうじょうかん)・窪田館と二つの製糸工場の工女のために特別科を設置した。季節的な夜間授業であったが、県下では早い時期の取り組みとして注目された。

 大正十二年(一九二三)四月、『東条小学校通信』一号が発行された。学校の教育内容の紹介と地域への啓蒙を目的としたもので、一号には、教育の背景として地域の歴史や上級学校への進学者数などの記事を掲載している。通信は昭和五年(一九三〇)二月の八四号までが現存している。昭和十二年に、東条村が経済更生運動による教化村に指定されると、農業教育体験の場として開墾していた旧工場の跡地に道場を建設することになった。道場は進徳寮と名づけられ、青年学校生らによって宿泊錬成がおこなわれた。

 以後戦争をはさんで小学校は、各種行事の会場となるなど地域の文化センターの役割を果たしてきた。