昭和四年(一九二九)に始まった大恐慌は繭価の大暴落をもたらし、養蚕に主力をおいていた東条地区は大きな打撃をうけた。村では経済改善委員会を設置して、負債整理と消費節約生活改善に取りくんだ。昭和十一年、東条村は農村振興のために、南安曇郡温(ゆたか)村(三郷(みさと)村)とともに県下で二ヵ村、内務省の教化指定村となった。東条小学校では農業体験の場として、製糸工場跡の開墾地に錬成道場の進徳寮(しんとくりょう)をつくって宿泊実習を実施した。戦争の激化にしたがって昭和十九年には、池袋第三国民学校生徒一〇七人の集団学童疎開を受けいれたが、翌二十年七月には東部三六四四七部隊が東条国民学校校舎の一部(教室・講堂)を使用した。また、大本営工事の一環として皆神山にも洞窟(どうくつ)が掘られ、東条地区にもハ地区労務者用仮設宿舎として三〇棟が建設された。昭和十二年日中戦争以来の大戦における東条地区の戦没者は九七人におよんだ。
軍需工場も、東京無線電気株式会社松代工場が屋地(やち)に疎開し、電波兵器(飛行機の無線機)を生産した。最盛期の従業員は一七〇〇人に達した。昭和二十年八月十三日の空襲には、近接した松代町御安(ごあん)へも爆弾が投下され、六人が死亡したが、この工場をねらったものだとうわさされた。