養蚕から果樹へ

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戦争中は食糧増産のために桑園から畑への転換が奨励されたが、戦後の食糧難時代をすぎると、また養蚕を導入しようとする試みがなされた。昭和三十九年(一九六四)から実施された第一次農業構造改善事業では、養蚕振興と農道整備に重点がおかれた。東条甲区では桑園の団地化を目的に四町歩を造成し、六町歩を改良した。また運搬の利便をはかるため農道約一キロメートルを新設し、稚蚕共同飼育所二棟を新設した。しかし、化学繊維の発明などによって急速に衰退し、かわってアンズ・リンゴ・ブドウなどの果樹、家畜、えのき・なめだけの茸(きのこ)類、たばこなどの特用作物が導入されるようになった。

 平成七年(一九九五)の東条地区の水田は三〇・一六ヘクタール、畑三四・八七ヘクタール、樹園地五〇・九一ヘクタールである。アンズは森(更埴市)と並んで多い。