明治期の豊栄

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近世の豊栄地区は松代藩領であった。明治四年(一八七一)の廃藩置県(はいはんちけん)で、同地区は松代県に属した。翌五年、新政府は、全国に区制をしき、新たに長野県下を七二区に編成した。埴科郡は二六区から二九区に分けられ、関屋村・平林村・桑根井村・牧内村・皆神山らの村々は二九区となった。同七年、政府は区制を廃し、大小区制を施行した。埴科郡は、大区は第一二大区、第一三大区の二区に属した。これにより、関屋村・牧内村・桑根井村・平林村・皆神山の村々の行政区は、第一三大区の第六小区となった。大区会所は松代伊勢町に置かれた。県の合併促進の方針により、明治九年五月三十日、関屋村・牧内村・桑根井村・平林村・皆神山和合院領は合併して豊栄村となった。同十一年の郡区町村編制法の制定により県内は一六郡となり、埴科郡役所は屋代村に置かれた。同十七年、連合戸長役場制が導入され、埴科郡内では、二ヵ村ないし四ヵ村を一単位として戸長役場をもった。豊栄村は一村で戸長役場をもち伊藤信作が戸長となった。

 明治二十二年四月、市制・町村制が実施されるにともない、自治に堪えうる町村を育成するため、村々の合併が推進された。豊栄村は一定の規模を有しており、一村のまま独立に堪えうるものと認められたことから、同制にもとづく新村として豊栄村が発足した。