英多荘の初見は、『吾妻鏡(あずまかがみ)』文治(ぶんじ)二年(一一八六)三月の「信濃国乃貢(のうぐ)未済庄々注文」に記され殿下御領とある。同荘は、元永(げんえい)・保安(ほうあん)年間(一一一八~二四)関白藤原忠実(ただざね)の所領で、のち近衛家に伝領された。同荘は、古代末期に英多郷がなんらかの理由で、中央の有力者に寄進され成立した荘園と考えられる。建長二年(一二五〇)、英多荘の地頭は平林氏であった。同五年の「近衛家所領目録」(藤原兼経(かねつね)が官に注進した記録)には、英多荘は冷泉(れいぜい)宮(三条天皇の皇女・藤原信家の室)領となり、同五年には地頭請所(じとううけしょ)となっており、そのことから推測すると寄進により成立した荘園と思われる。中世の豊栄地区は、英多荘内にあった。