地頭平林氏の居館跡

445 ~ 446

平林・桑根井 平林氏は「滋野(しげの)姓平林系図」によると、小県・佐久両郡におこった滋野氏の出で、その祖を重俊といった。重俊から五代目の宗俊は、埴科郡布施荘と同郡英多荘の地頭職(しき)を兼ね、英多荘の平林に住して平林氏を称した。承久(じょうきゅう)の乱(一二二一)で鎌倉幕府に忠勤を励み、その恩賞として豊後(ぶんご)国海部(あま)郡佐井郷毛井(けい)社(大分県大分市)の地頭職に任ぜられた。豊後国では津守氏と称した。建長二年(一二五〇)の「平林西仏譲状案」に「信濃国英多庄八郎丸名之内平林屋敷内桑井傔仗(けんじょう)屋敷事」とある(「平林氏古文書幷(ならびに)系図」)。この八郎丸名は、現在の平林にあったと考えられ、桑井も現在の桑根井である。これらの地には、「政所(まんどころ)」「堀内」などの地名が残っており、地頭平林氏の屋敷地があったことが知られる。弘安八年(一二八五)の「豊後国図田帳」にも「毛井村十町 信濃国御家人平林弥太郎親継入道女子等」とあり、平林氏は、地頭として信濃国英多荘に居館を有していた。


写真1 伝 地頭平林氏の居館跡