一 神社

448 ~ 451

 桑井神社 前山 ①祭神 建御名方命(たけみなかたのみこと)・八坂斗売命(やさかとめのみこと)・天照大神(あまてらすおおみかみ)②由緒 社伝には、郷士村松土佐守の鎮守で松尾大明神・山王大権現とよばれていたが、文亀(ぶんき)二年(一五〇二)桑井大明神を勧請(かんじょう)したと伝えている。『つちくれかかみ』には、「池田宮御手洗弁財天由来記」の伝えとして「何方(いずかた)よりか白髪の神人が来て、腰にさしていた剣を抜いて、繁っている千草をことごとく薙(な)ぎ捨て、農夫のもっていた鍬(くわ)で地を掘ったところ、清水が湧きでて、清水は絶えることがなかった。そこを鍬野井といった。白髪の翁は巽(たつみ)(南東)をさして行くかと見えたが、林のなかに姿が消えたので、その林を鍬野井の神と崇(あが)めた。年移って孝元天皇十六年四月十六日、磯並三神大明神を東の池の島に祭り、鍬野井の神を草薙の神、猿田彦命を瀬関の明神と崇めた」とある。社殿は、本殿・覆殿(おおいでん)・祝殿・拝殿があり、境内地は五三四坪余である。境内に金毘羅(こんぴら)社など四社が祭られている。昭和二十七年十月、華表(かひょう)(大鳥居)が再建された。例祭は、四月十五日の春季大祭、十二月二十八日の大抜祭の大祭がある。


写真3 桑井神社

 諏訪社 平林 ①祭神 建御名方命・八坂斗売命 ②由緒 不詳である。「神社明細書」の諏訪社の項によれば、「皆神山和合院の配下にあった。その時は、関係書類はすべて同院が保管した。しかし、同院が大災のとき、全書類を焼失してしまったため、証拠となるべきものは何もなくなってしまった」と記している。天明二年(一七八二)松代藩は平林村全図を作製させている。その絵図には、諏訪社や境内のようすが描かれている。本殿は板葺(いたぶ)き平屋で拝殿がある。境内には、秋葉(あきば)社など五社が祭られている。例祭は十一月二十三日である。

 藤沢萩神社 牧内 ①祭神 諏訪大明神 ②由緒 不詳である。建御名方富命(とみのみこと)が出雲国から信濃に下ったとき、現在の社地附近の住民が出迎え、命(みこと)が舟より降りて休息されたところであるという。中窪の三方土手の上に社木を植栽し、これで社を建て、諏訪の宮と称した。やがて用材がなくなり、境内の萩の木を用いて造営した。これにより、萩の宮とよばれることになったと伝えている。明治十九年(一八八六)十二月、藤沢川の藤沢をとり、藤沢萩神社と改名した。間口一三尺、奥行一三尺の奥の院や本殿がある。境内には皇大神宮などの摂社がある。昭和三十四年(一九五九)の伊勢湾台風で大災害をうけたが、同五十四年四月には再建された。

 金刀比羅神社 宮崎 ①祭神 金刀比羅(ことひら)大神・秋葉大神・山神大神 ②由緒 藩による宮崎の新田開発がおこなわれたさい、水害にあわないためにと文政二年(一八一九)六月、金刀比羅大神を主神とする社が建立された。本殿は入母屋(いりもや)造りで、拝殿がある。境内には秋葉神社、大山社などがある。例祭は九月十五日。天保(てんぽう)十二年(一八四一)建立の鳥居は、昭和三十四年の台風で倒壊したが、同五十四年皆神山神社領の御神木で再建された。

 源関神社 宮田 ①祭神 建御名方命、八坂刀売命、事代主命(ことしろぬしのみこと) ②由緒 創建は不明である。社伝では、諏訪神氏の一族大祝(おおほうり)為盛が、延久(えんきゅう)元年(一〇六九)関屋に住し関屋氏の祖となった。そのとき、産土神(うぶすながみ)として建御名方命を勧請したのが始まりであろうと伝えている。応永十二年(一四〇五)社殿建立の棟札に本願関屋市兵衛の名がみえており、関屋氏の庇護(ひご)があったことが知られる。同社の覆屋(おおいや)のなかには諏訪神社と住吉神社の二社頭がある。本殿および陳札は、昭和四十四年九月十日市指定文化財となった。例祭は九月十五日である。

 熊野出速雄神社 皆神山 ①祭神 出速雄命(いずはやおのみこと)・伊邪那伎命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(なみのみこと)・速玉雄命(はやたまおのみこと)・豫母都事解男命(よもつことさかおのみこと) ②由緒 社伝では、養老(ようろう)年間(七一七~七二四)に出速雄神を主祭して社が営まれ、康応(こうおう)元年(元中(げんちゅう)六年、一三八九)再建された。諏訪神氏の一族である大祝為仲の子孫が関屋に移って、出速雄神を祭祀したことに始まるという。宝物殿に、大日如来座像をはじめとする木像三躯(く)がある。各像の台座の天板裏面に、それぞれ弥勒(みろく)二年(異年号で永正(えいしょう)四年、一五〇七)の銘がある。このことから、中世には熊野三社権現にならって修験(しゅげん)を行とするものにより山上が整えられてきたと推測される。近世に入り、下野守の時代に神社は修験に転じて大日寺和合院と称し、皆神山の修験道の大要が確立されたと考えられる。

 慶長三年(一五九八)、海津城主田丸直昌(ただまさ)は、皆神山内に竿(さお)入れをせずに社領を安堵(あんど)させている。安堵状の宛書きには「皆神山桜本坊」とあり、皆神山が修験によって支配されるにいたったことを物語っている。慶長十年京都聖護院(しょうごいん)から正式に和合院の院号をうけ、県下の修験を統轄することになる。明治元年(一八六八)の神仏分離令により修験は解体し、熊野出速雄神社となった。境内に侍従大神(じじゅおおかみ)社、富士浅間(せんげん)神社などがある。

 昭和二十二年(一九四七)に、豊栄小学校の奉安殿を移築して宝物殿とし、二十五年には、和合院の屋敷地内に社務所が新築された。祈念祭は四月十六日・十七日、例祭は十月十日で、各地区から太神楽(だいかぐら)、すくね会講による相撲などの奉納がおこなわれ、近隣からの参拝者でにぎわう。平成六年(一九九四)八月十五日、本殿が県宝に指定された。


写真4 熊野出速雄神社の奉納相撲